ジャイアント馬場
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- 「紙のプロレス」より
「テレビの中のプロレスラー」
「あの、今回からタイトルが変わりました」という電話での通達を受けた時、私は『紙のプロレス』という雑誌名が変わったのかと思った。でもこのページのタイトルのことだった。編集長が長くあたためていたという新タイトルは「パワー・ゴム」。とほほのほ。いいタイトルだ。ヤル気出まくり――!
気をとり直して、今回は「テレビの中のプロレスラー」をテーマに考えてみたいと思う。この「テレビ」というのは「プロレス中継」以外の番組のことである。
レスラーに限らず、テレビに出ることが本業ではない人がどんどんテレビに出てくる(出される)傾向はいま始まったことではない。年々、拍車がかかってきてもいる。そしてその場合、その人が本業のテリトリーの中で在った意味と、まったく別の読まれ方をしてしまう。例外なく。たとえば、ワイドショーのコメンテーターで引っぱりだこの大学の先生方。仮にも名の通った大学の助教授、教授、名誉教授たる方々である。それぞれの専門分野ではさぞかし立派な地位・名誉・業績を確固たるものとしていることだろう。しかし、そんなことは関係なく、テレビに映った先生方は単に「へんなオヤジ」とか「カツラのくせに」などと言われてしまうのである。
プロレスラーとて、その宿命を避けて通ることはできない。
馳が高見恭子と結婚した時も、ワイドショーレベルの芸能ニュースがとらえた馳は「レスラーなのにインテリ」という一面に終始した。
藤原だってそうである。一部を除いたほとんどのテレビでの藤原に、関節技も中島体育館での長州襲撃も藤原組設立に至る物語も何もない。あるのは「顔が怖い」とか「熊と闘った」(言ってみればグレート・アントニオ的なプロレスラー像)といった意味の藤原だ。アジャ、ブル、神取といった女子プロレスラーなどはさらにステレオタイプな意味しか与えられない。
これは、相撲取りと比べてみるとよくわかる。ま、相撲は国技であるというのはあるが、大相撲ファンとプロレスファンの量はそんなに差があるとは思わない。でもおすもうさんに関して、世の人は個々の物語や意味をていねいに汲み取ってあげていると思う。相撲中継の視聴率がどれくらいなのか知らないけど、相撲界の動きは国民周知のことということになっている。プロレスファンは全国3000万人いるのに。
前にもここに書いた気がするが、プロレスラーはどんどん日の当たる場所(テレビ)に担ぎ出されているのに、プロレス自体は置き去りであるのに。それが、レスラーがテレビの中で違う読まれ方をされてしまう原因だ。
しかし、この「プロレス界のことは伝わらない」を逆手に取ることで、たとえば元レスラータレント・ストロング金剛などは成立している。大仁田もそうかもしれない。あ、キューティー鈴木も。
猪木の不幸の原因の一端もここにあった。世間が、もしも長嶋茂雄を理解するレベルで猪木を理解してくれていたら状況は変わっていたはずだ。
しかし、こう考えるとジャイアント馬場のすごさがわかる。「全日本プロレス中継」の馬場と、「クイズ世界はSHOW・BYショーバイ」の馬場、同じだもの。
(消しゴム版画、文とも)